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香西の歴史・過去の建物

藤尾城
藤尾城
 佐料城に代わる香西氏最後の居城。香西佳清(18代)が、長宗我部元親の讃岐侵攻に備えて、1575年(天正3)藤尾山(磯崎山)に築城した城。天守部分の標高20m。1585年(天正13)、秀吉の四国征伐により廃城。城として存続したのは10年間。築城に伴って、それまで藤尾山にあった宇佐八幡宮は上(かみ)の山に移された。
 築城開始は1575年(天正3)。藤尾山山麓の東南・北に堀をめぐらし、西には空堀を置いた。周辺を家臣団の居館が囲む変形五角形の総構え。さらにその東方、南方は深田、海岸部までの居住区はムキムキの町屋で防御態勢を固め作山に副城として作山城を、芝山には出城として芝山城を置いた。

藤尾合戦/藤尾城合戦
1582年(天正10)7月末〜8月6日、香西佳清が土佐の長宗我部元親の孫功を受けて戦った壮絶な戦い。
 1578年(天正6)夏、西讃岐の藤目城(城主斉藤下総守)攻略から始まった長曽我部元親の讃岐制圧は、4年後の1582年(天正10)7月中に聖通寺城(城主奈良太郎左衛門)、西庄城(香川民部少輔)を落とし、次の攻撃目標である香西佳清の藤尾城に迫った。 両軍の本陣は長曾我部軍が国分寺月中に香西軍が藤尾城に置き、7月末までに双方の布陣が完了。8月 1日未明の大谷(宮尾)、衣掛(こかけ)の攻防で戦闘開始。8月2日3日の大雨による戦闘中断を経て、8月5日には長曾我部軍の猛攻が始まり、伊勢の馬場、本津小畑(おばた)、西光寺表、天神郭、堀の内郭と戦場が移って合戦は一気に終局に入った。その直後に香川信景の和睦斡旋があり、6日の休戦、和睦で合戦は終了した。
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(2014年12月撮影)

(2014年12月撮影)

(2014年12月撮影)
山田さま所有資料より
「山田さま所有資料より」
(昭和30年頃 撮影)
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