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香西の歴史・お墓・お堂・お地蔵さん

香西八幡宮に建立された記念碑
香西八幡宮に建立された記念碑
1.日露戦役従軍記念碑
日露戦役(日露戦争)は朝鮮・満州の支配をめぐる日本とロシアの戦争。1904年(明治37)2月8日日日本側の旅順港奇襲で戦争開始。旅順攻略、奉天会戦日本海海戦などを経て、1905年(明治38)9月ポーツマス条約(日露講和条約)締結により終了。この戦役に従軍された人たちを記念して建てられた、宇佐八幡宮の正面石段の西脇にある香西最大の記念碑。日露戦争終戦の翌年1906年(明治39)3月30日建立。  発起人は、上笠居村長片岡梅吉、中笠居村長久保栄吉、下笠居村長大下為八、社司泉川好江、社掌若林信敬。表面の上部に「永表忠誠」の4字、その下に香川県知事小野田元煕による碑文を記し、裏面に三村従軍者全員の氏名官等級を戦死者(21名)、病死者(6名)、帰還者の順に刻している。笠居三村からの従軍者は335名と記している。

2.従軍者石版
「大正三年乃至(ないし)九年従軍者」の石版。「新香西史」によれば、1918年(大正3)の従軍を日独戦争従軍と表記し、1920年(大正9)シベリア出兵と記している。
 宇佐八幡宮の正面鳥居の手前に四枚の石版の表には宇佐神社の巴紋を刻し、表題に「大正三年乃至九年従軍者」、裏面(神社側)西側から下笠居村30名、上笠居村32名各1枚に、そして香西町50名と発起人18名が2枚の石版に刻まれている。従軍者計112名。
 1914年(大正3)第一次世界大戦勃発。
日本は ドイツに宣戦布告、青島(チンタオ)などへ出兵。1916年(大正7)まで続いた。
 従軍石版は1923年(大正12)建立。

3.満州・上海事変凱旋記念碑
【満州事変】日本の中国東北(満州)への日本の侵略戦争。日露戦争後に南満州鉄道を中心とする諸権益を得た日本は、一層の維持拡大を図って軍部が種々工作を重ね満州国を樹立。米国を中心とする列国との軋轢が増し、1933年3月国際連盟を脱退。
軍部はなおも侵攻をつづけ、日本を戦時体制へと進めていった。
【上海事変】日本の中国東北と華北での戦争がそれぞれ上海に飛び火した二度の戦争。第一次上海は、1932・1.・18世界の目を満州からそらすため、軍部の謀略に端を発し、日本中国両軍が激しい戦闘を繰り広げた。5・5休戦協定成立。第二次上海事変は1937.・8・9中国側の中国側の日本将校射殺事件を契機に激しい戦闘が11月まで続いた。日中の全面戦争に拡大していった。
この戦争に従軍した上笠居・香西・下笠居の人たちの参戦記念として、当時の御手洗池脇の参道に東西各1本建立して満州・上海事変凱旋記念碑としている。
発起人三地区合わせて8名、上笠井居村長以下26名、香西町長以下26名、下笠居村長以下32名、以上 関係者含めて92名の氏名が刻まれている。
1936年(昭和11)9月建立。

4.致和記念碑
宇佐八幡宮境内、日露戦役従軍記念碑の西側にある小作争議解決を記念した石碑。石碑の表題は「致和(ちわ)」香西町農事改善会が建立。碑文には1926年(大正15年)9月とある。落成式は1927年(昭和2)2月13日。香西町における1924年(大正13年)11月の争議は、町長による調停不調、農民組合(日農)の争議指導などもあって、年を越した1925年(大正14)にも長く紛争。6月に町内有力者の調停により小作料の一定の減額などにより解決を見た。
争議解決の直後1925年(大正14)6月25日、日農の影響を排し地主・小作の融和協議をはかることを目的として、農事改善会が結成された。致和記念碑の建立は、結成後間もなく農事改善会によるものであり、碑文には農事改善会の立場が強く表れている。
 石碑の背面には、調停委員5名、事務主任1名、地主惣代7名、小作惣代65名の姓名が刻されている。
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